宇喜多家家臣
宇喜多家家臣

明石全登は宇喜多家の家臣でありました。ですが、最初から宇喜多家に仕えていたわけではありません。 全登の父である明石行雄は備前国、現在の岡山県和気郡和気町田土にあった天神山城の城主であった浦上宗景(うらかみむねかげ)の家臣でありました。 ですが、1574年から翌年の1575年にかけて天神山城の戦いが起こりました。

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キリシタンとしての側面
キリシタンとしての側面

謎が多いミステリアスな戦国武将である明石全登。生い立ちについてなどがまだまだ不明な全登ではあるが、熱狂的なキリシタンだという事は有名です。 掃部頭(かもんのかみ)という通称もある全登は、明石掃部とも呼ばれており、仕えていた宇喜多秀家の片腕と言われるほどの重要な役割を担っていた人物でした。

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様々な戦に立ち向かい凄まじい武功を残している戦国武将ですが、その多くの武将の中でも謎が多い戦国武将も存在します。その人物とは「明石全登(あかしたけのり)」と言います。 「景盛(かげもり)」「守重(もりしげ)」「掃部(かもん)」と多くの名を持つ人物で、とても熱心なキリスト教徒でもありました。 そして大坂の陣では、大きな活躍をした全登ですが、彼の生い立ちははいまだ謎を秘めているミステリアスな人物でもあります。 関ヶ原の戦いや大坂の陣などの大規模な戦にも参加しており凄腕の武将でもありますが、全登は大坂夏の陣の終わりには忽然と姿を消し消息不明になってしまいます。 不明になったあとは確実な記録はなく様々な諸説が出てきて更に謎が深まっています。 そんな明石全登とは一体どんな人間であったのか、当サイトではこのミステリアスな明石全登をあらゆる観点から紹介していきます。

明石全登とは

明石全登(あかしたけのり)は1618年に備前の保木城主である明石行雄(明石景親)の子として生まれました。 生まれた年は1618年と言っていますが全登の生年月日を知る確実な史料がなく、定かではないそうです。 備前明石氏は日本の氏族の一つとする赤松氏の末裔で、銅山経営者であり技術統率者という側面を持つ一族でもあります。 全登の父、行雄は元々、備前国の戦国大名であり天神山城主であった浦上宗景に仕えていました。ところが、1575年に起きた浦上氏滅亡の時には、同じく備前国の戦国大名であった宇喜多直家と呼応し合って宇喜多側へと寝返り、宇喜多家に帰属する事になります。 行雄は弟の景行と共に直家と息子の秀家に仕え、1588年に従五位下・4万石の知行までになりました。行雄の嫡男であった全登は1597年に行雄の存命中でありましたが、その4万石の跡を継ぎ、備前国の郡であった和気郡の大俣城の城主となりました。 1599年に起こった宇喜多騒動によって家宰の長船綱直が殺害され、他に関与していた重臣4人は出奔します。そして全登が宇喜多家を仕切る事になりました。 宇喜多氏が没落し浪人となった全登は、母親が明かし一族であり、キリシタン大名である黒田如水の下で庇護され、1614年の大坂の陣に参加したが、敵将の藤堂高虎の軍勢に奮闘し包囲網の一角を突破し戦場を離脱、そして消息不明となりました。大阪の戦国絵巻、大阪の陣で活躍した武将たちについて、よりもっと深く詳しく知りたい方は是非ここをチェックしてみてくださいね。